2012年8月21日(火)
あたらしいほんができました。
至光社こどものせかい9月号「くらやみうまれの ともしびは」(くわしいごあんないはこちら)。
いつもながらに、ながめの題・・・・・・・・はさておき、
このほんの制作には はじめてのことが ものっすごくたくさん、ものっすごい濃度でつまっています。
きもちも。時間も。
いちねんかけて描いていた もともとの刊行予定を棚上げして、
このほんの制作を許してくださった至光社の編集大師匠、また編集のみなさま、
製版がめんどくさそうなのを知りながら「くらやみ」と「きいろ」をこころおきなく描かせてくださった、
印刷関係の腕利きのみなさま、
さまざまな想いをくれる、すべてのかたがた、ほんとうにありがとうございました。
できました。
がんばりすぎたか?の歯痛を治してくれた、ドクターMにも この場を借りて御礼申し上げます。
じっとすわりすぎて足首もおかしくなりましたが、そこんとこはなんとか自力で治癒。
制作のことを自分からお話しする前に、
「ともしび」(略称。編集さんは「くらやみ」って呼ぶけど)にさっそく寄せてくださったご感想のお手紙を、抜粋でご紹介します。
今回の作品は、「こどもの世界」を守る「見えざる力」の世界に同化し、
いわば外側から「こどもの世界」を描こうとしている、そんな印象を受けました。
今までは、「こどもの世界」にどっぷりと浸かって、その中で見聞きし、感じたことを表現しようとしておられたように思います。
また別の角度から、より一層深いアプローチを試みられた、ということでしょうか。
キツネ、と言えば鬼火、狐火を連想しますが、その、どこか「あやし」の香り、
不穏な気配の漂う「火」を、暖かな思いやりのともしびとして描く、という視点が、とても新鮮でした。
キツネの体温はおろか、けものの匂いまで伝わってきそうな「近さ」と、木々の奥に続く森の小道の「奥行の深さ」。
窓枠の桟にさりげなく浮かび上がる十字架。
こどもたちは、新しいいのちの誕生をお祝いするために、花を摘んでいたのですね。
まっすぐに私たちを見つめる赤ん坊の目は、イエス様のまなざしでもあるのでしょうか。
それとは知らずに、こどもたちの道行きを心配するキツネの優しさが、図らずも「生誕」に出会うという喜びにつながっていく。
「あたらしい いのちの ともしび」に出会い、「ほんとうの ともしび」に出会った、と驚くキツネの表情が見事です。
踊り狂うキツネの描写が、めったにない喜びに出会った、というキツネの想いをまっすぐに伝えてくれます。
喜びの瞬間に出会ったキツネは、「あなたたちを まもる ひとつの ともしび」に なりたい、と決意します。
キツネ君は照れ屋で、すぐに「なんちゃって・・・」なんてふざけてしまうのだけれども・・・
自ら光り輝くキツネの描写の向こうから、今までになく強い、とてもストレートなメッセージが響いてくるのを感じました。
いつのまにやら増えていく「ともしび」の流れは、森の精霊たちの光なのでしょうか。
「こどもの世界」を見守っている、見えざる者たちの気配と同時に、現代の日本を象徴的に表しているようにも感じました。
一人一人の心にともったともしび(誰かを助けたい、とか、子どもたちの未来の為に原発をなんとかしよう、とか、
戦争をやめよう、とか)は本当に小さいけれど、
それが大きな流れとなって集まると、光の川のように、滔々たる流れとなる。
そんな、シンボリックなメッセージもこめられているような気がします。
「だれもが きっと ちいさな ともしび てらしあって いきよう」この言葉に、作者の想いは集約されるのでしょう。
暗闇の森に輝く十字架(のような窓の光)と、空の星のきらめきとが、呼応しているように感じました。
闇夜でも見守っていてくれる「なにか」が居る、ということ。
そしてその「なにか」達が「ひとりの誕生」を心からお祝いしてくれる、ということ。
自分もそうやって見守られて、待ちわびられて生まれて来たのだ、ということ。
読みながら、ハインリッヒ・ベルの短編「ろうそうくを聖母に」を思い出しました。
絶望のあまり、神を信じることすらできない男が、せめて祈れたら、と願う。
そして、マリア像にろうそくを捧げて祈る若者の姿に促され、ただひたすら、ろうそくをともしていくうちに、
男の内面が浄化されていく。
戦後の荒廃期に書かれた言葉と、被災後の日本とが、どこかで響きあうような気もします。
闇夜に輝くたくさんのきらめき。私たちのいのちをつなぎ、今もなお見守ってくれているなにものか、の気配。
「ともしび」には、それを見る者の内面を照らし、清め、明るませる力があるのかもしれません。
・・・・・青木由弥子さん
・・・・・そうだったのか。としかいいようがない。
どうしようもないもやもやが わたしのなかで溶岩ドームのようにふくれあがっていて、大噴火まがいに描いたけれど、
ことばにするとこういうことだったのか。
と またもやひとさまにおしえられる。
では もう一丁。
そういえば、ヨハネ福音書に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」
と書いてあります(ヨハネ1章5-6節)。
イエスは「いのち」そのもので、そのいのちが人を照らす「ひかり」であった。
それは「暗闇」のなかで輝いている。いのちは暗闇に輝くひかり。
「いのち」はこの世の中の不幸の闇を生きる人間のなかに明るい希望をうまれさせる「ひかり」です。
生まれていきることが「ひかり」となる。それは神さまが光源だからです。
ひとりひとりが照らされていいるのです。だれ一人例外なく。
・・・・・龍谷大学 久松英二先生
・・・・・・そうだったのか。としかいいようがないけれど、これは「ともしび」に対してではなく、
ヨハネ福音書に、というか、聖書に、というか、キリスト教に。
知りませんでした、と先生に そっと白状申し上げたところが、
久松先生からは、てっきりあなたがこの一説を下敷きにしたのだと思った、とのお返事をいただきました。
申し訳なくもはずかしいくらいに、一般教養以下に、聖書には不案内。どうしてこんなことになったのだろうか。
そういえば、青木さんも、あかんぼうのまなざしを、イエス様の・・と書いている。
あれは、はっきりいって、うちの末息子なんだけれど。さかのぼればまんなかの娘なんだけれど。長男もあんなだったけれど。
そして、どこのおうちでも、あかんぼうはきっと
ああいうまなざしで 生まれ出たことをよろこんでいる。はず。なのに。
ということへの想いは、また書くとして、
次回は、ほんとうにモチーフにしていた、くらやみと光の印象をくれたあのこと、あの本、についてです。
またです!