あおむしへの手紙 3 おへんじ~回廊をゆく

2012年3月18日(日)

 

大きな月と蝶の羽とが、象徴する、見守る愛。根源的な、親の愛。

蝶の羽がイメージさせる、迷宮の、回廊。親である「わたし」の、昼の頭、夜の心。

 

頂いたご感想のことばから、わたしがゆっくり歩いていると気付かされたのは、

「時の回廊」でした。

 

以前も書きましたが(日々記2月12日)、この本は、「この両者が親子であるふしぎ」、その出会いの奇跡への想いが出発点でした。

つまり、現実の自分のくらしのなかでここまですごしてきたこどもとの「奇跡の時間」は、見守りの時間だったということです。

 

見守り。見守るものの時間と見守られるものの時間。

こどもとのくらしで、その時間を、すごすということ。その時間が、くれるもの。

こどもの時間を見守る、という、おとなである「わたし」の時間。

見守る「わたし」が反芻する、過去の「わたし」の時間。こどもだった「わたし」の時間。

くりかえされているかのような、こどもの時間。その、普遍の時間。

光と影のように、明滅のように、そんなことばのかけらが、ひらひらと 回廊を舞うようです。

 

ゆらゆらと、ときに立ち止まりながら回廊をゆけば、こどもをそだてる、こどもとくらすことは、

存分に自分自身の人生であるな、それもかなり重層的な気分になれる日々であるな、と、気づきます。

親として、と考えるべきことは当然あるのかもしれませんが(昼の頭、でしょうか)、

親であることはまた、ひとりの、むかしこどもだったものとして、うろうろと時と場所をうつろいながらおとなになったものとして、

わたしがこどもだったときを しぼりだすように思い出してそのときを生きなおすようなきもちで くらすことだったように思います。

いま目の前でだだをこねておとなであるわたしをこまらせるちいさいにんげん、

わけのわからないふるまいや理解できない感情で

まるで自分を試しているのかとさえ感じるような追いつめられるきもちにもなる瞬間、

自分のそんなきもちに嫌気がさして自分をせめるとき、

いまここにある自分をさらけだして彼らの前に立つよりほかありません。

彼らの前で、この奇跡の出会いを、自分のありのまま生きよう。湧き出でる愛をそそいで。

そう思ったら、なんとかやってこれました。

 

忘れられない夜があります。

5歳だったでしょうか。よるひとり寝つけずにいると妄想がしのびよります。

明日の朝への不安。

明日の朝目がさめたら、まったく別の人になっていて、赤い花の畑のなかのしろいたてものの前にたっていたらどうしよう。

目がさめると、きのうとおなじわたしが、団地の部屋におりました。ほっとしたような、がっかりしたような。

そんな夜と朝ををくりかえして、あしたもあさっても、自分は自分を生きるよりほかないのだということを、

「わたし」は了解したような気がします。

 

わたしから生まれたこどもが、やはり5歳だったでしょうか。

ねえ、かあさん、明日の朝まったくちがうものになっていたらどうする?

と 寝しなに尋ねてきました。

覚えのある、妄想でした。

赤い花畑のしろいたてもののまえのひとではありませんでしたが、

ばったになってるとか。と、息子は申しました。

それか、まったく違う場所にいるとか。とも言いました。

それをうけて娘が言いました。

おじいちゃんのおひざにいるとか。

願望とよるべなさのいりまじった夜、かつてわたしもすごした夜のなかに、このこどもらはいました。

これが、あおむしになるこうちゃんの原点です。

 

真実とはなんなのでしょう。

ひとは明日の朝、自分でないなにかになっていたりはしません。

けれども小さいこどもにとって、明日の朝 自分でないなにかになっているかもしれない、という不安は、

まぎれもない真実です。

ゆらゆらと回廊をめぐりながら、そのことがわかったことは、わたしには幸いです。

 

おとなになるとはなんでしょう。

こどもじゃなくなることでしょうか。

ならばこどもとはなんでしょう。

ここにいる、

自分からうまれでたこどもとはだれでしょう。

どこからきたのでしょう。

なぜここにいるのでしょう。

そんなことを考えあぐねる問いが、浮かんでは消えます。

いきものの親としての本能は、ただ 愛しく思うしかけ、プログラムではないでしょうか。

この子が食べていけるように ひとりで生きてゆくことができるように 育てる。

すこし手をかし、ずっと見守り続けることはそういう本能、根源的な親の愛なのでしょう。

そういう日々の中で、どうしてもふと考える、本能のそとにあるこの問いのおもしろさ。

見守り続けることで問い続け、問い続けることで生き続け、生きている限りあるく、回廊。

こどもをみまもり、そのじぶんをみつめ、ゆらゆらとゆく回廊。

 

こどもが、大きな学生さんになっても、回廊はつづいています。

もはや寄り添うしかない、というより、ときに寄り添いきれないことのせつなさを抱える、お父さんお母さんどうし、

回廊でばったり出会って短い立ち話をして気付くのは、

回廊は、ほんとうにぐるぐるとめぐっており、いきているかぎり、終わらないということなのでした。

あおむしがちょうになってすだちを見送ったつもりでも、その影をやきもきしながらずっと見つめ続けるしかないのでしょう。

幸あれと。

 

 

 

想いの深いご感想、ほんとうにありがとうございました。

これからもどうぞよろしくおねがいいたします。