しっくい壁の影絵

2011年11月7日(月)

 

ちいさな谷川の底をうつした二枚の青い幻灯です。(宮沢賢治・やまなし)

 

そうつぶやいてながめている。

差しているのは裸木の影、うつしているのはしっくい壁。

 

林の中の雪にはあい色の木のかげがいちめん網になって落ちて

日光のあたるところには銀のゆりがさいたように見えました。(やっぱり宮沢賢治・雪渡り)

 

こっちのほうがあっている。

まあ、どっちだっていい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日のめぐりは日々かわるから、

こんなふうに影が差すのはこのところのしばらくだけだと今は知っている。

白壁にはつるかなんかを這わせようかと もともとは考えていたけれど、それはしない。

はじめてこんな影をみつけたときにきめた。

映写幕をのこしておくことにした。

いちいち「幻灯」と呼ぶのだ。

 

しっくい壁をぬったのは、すごいひとだったらしい。

その現場に、毎日かよっていた。

自分の家をこしらえる作業をしたくて、職人さんたちにおねがいして現場にいれてもらい、素人あつまって内壁をぬっていた。

その間じゅう、そのひとは外壁のしっくいをぬっていた。

「どちらのしあげにしますか」

下地を幾重にも終えてから、寡黙なそのひとが、たずねた。

半畳ほどの二枚の板に見本にぬられた、しっくいの、その コテのあと。

おだやかに光を放つ、平らでなめらかなぬりとしばらく迷い、

こちらでおねがいできますか、と、波もようのほうをゆびさした。

「そうですね。そちらがいいと思います。」

そのひともやわらかく笑った。

日本で指折りの左官さんだと、きいていた。

うでまえだけではない、しごとのはやさもぴかいちで、時間単位で請け負うときめているから、

さっさとおわればあがりもすくない、作業面積で、という申し出も、いいよいいよと受け流す、

「ひととしても親方」と、施主、職人衆、図面方、みんなにしたわれる。

潮風をうける外壁が、まっしろな波模様をまとってゆくコテの音、

それはいまでも耳にある。

ざああっ。ざっ。ざああっ。ざっ。

たてかけの家のなかで、まいにちそれをきいていた。

その音にあわせて、内壁にも土をぬりたい。

腕をいっぱいにゆっくり振ってみたらそのリズムだった。

六本木の美術館で、モジリアニのなぐりがきの前でやってみた腕振りとおんなじにたっぷりだ。

けれども同じ波にはのれないのだった。

一朝一夕でできてたまるか。

うっとりききながら ちまちま塗った。

伝統工法の活きる場がなくなってひさしい。らしい。

すすめられるままおねがいして、ほんとうによかった。

すごい左官さんが、左官の皆さんが、うでを振るえる現場がどんどんふえますように。

建築現場も、伝統回帰、自然素材回帰の方向もあるとはきく。

 

できあがった外壁を、さんぽのひともほれぼれながめた。

まっしろなしっくいは、いつまでもまっしろだそうだ。

年々硬化し、よごれもよせつけない。

朝は東の壁が朝日の色に、

夕方は西の壁が夕日の色に、

そのまんま照るのだった。

西の壁に、木の影があおく差すのは、日の道がかたむく秋から冬のひとときでしかない。

まだ10月だったのに、うつっているのが裸木なのは、9月に、ひさしぶりにやってきた猛烈な台風のせいだ、

木々の葉は、全部、おちた。

 

左官の親方は、その台風をしらない。

梅雨入りのころ、なくなったと聞いた。

まだ若かった。

「その壁は、親方ののこした作品になりました」

したしい建築士がそっとうつむいた。

しらせをきいて、波もようのコテあとをそっと ゆびでなぞった。

ゆびは波にそって、ざらりとすべる。

かべはまっしろで、ひんやりとしずかだ。

この白壁を守ってゆく。のではない。

この白壁が、海辺のくらしをまもってくれる。

どんな災難からも、と信じている。

今日だって、白壁は夕日の中で深呼吸している。

 

 

白壁にあおい影が差す。

こおった雪の林をおもいだす、あおじろい幻灯がゆれている。

木には季節はずれの新芽が吹いた。

親方のお弟子さんは、大きな背中をまるめてしょんぼりしていたけれど、

りっぱに独り立ちした。