2016年6月15日(水)
家に古いピアノがあります。
年をとったうえに手入れもわるくて
梅雨時になるといくつもの音がでなくなっていました。
しかし。
一昨年一念発起大修理をしたらみごとによみがえり、
わたしなんぞがさわるばかりではもったいなくてあやまりたいくらいに
よく唄うようになりました。
それを
またもや一年近くさわっておりませんでしたが
どんよりした梅雨空をながめてふと
鳴るのかしら。
と 不安になり
ちょびっと鍵盤にふれてみたらちゃんと音が出たので
おほほ。と安心。すこしばかり弾きました。
弾くといったって
子供のころに3年ばかり基礎をおそわってリタイアした身、
レパートリーはない、指はうごかない、
いつもどうするかというと
耳からはいってきてとどまっているさまざまな歌や楽曲の旋律を
(世の中にはほんとうにうつくしい音楽がありますね!)
ちまちまと右の手でひいているうちに
うれしくなってきて
左手で音をそえてみて遊ぶのですけれど、
ひとり悦に入り、たちまち時がたってしまいます。
いま
あたらしい絵本の構想にはいっており、
あたまのなかは
煙が充満したような状態で、
ときどき見え隠れする光の筋や景色をつかもうとしては逃げられて
うーん。
といやになり、
家の掃除をしたり
伸び放題のツタを刈り込んだり、
ビールをちょと飲みすぎたり、
しなくてもいいDIY作業をして家人にあきれられたりして
暮らしていますが
ピアノをさわっていたら
降ってきたように きがついたことがありました。
ゆるやかでやさしいけれど たしかな旋律に、
ささやかでたどたどしくても いくつかの音をそえることができたとき、
ふうわりとしたひとつの交響が生まれる。
みたいな気がする。
というようなことです。
えほんづくりの感覚とおなじでした。
それは、
織物の縦糸と横糸の感じにも似ていて、
ほんとうは無意識にでもその作業の結果
いままでもえほんをつくることができてきているのでしょうけれど、
鍵盤をさわる自分の指のあまりの拙さに
こういうことだな、とひとつの手順がわかった気がします。
たどたどと鳴らして遊んでいたのは
中島みゆきさんの
「糸」
でした。
そんなわけで
まずは旋律をたしかにし、
試行錯誤してもだえながらまた、
あたらしい交響を奏でたいものです。