2015
6
Nov

日々記

いつのまにか どこからか のこと 

2015年11月6日(金)

「気配」を描こうとした今回のしごと
「いつのまにか どこからか」は
描いた本人による言語化を
なぜだかどこまでも阻みます。
ところが
神保町展の真っ最中に、
至光社編集部経由でいただいた久松英二先生のおてがみに
全部ことばになっていて
まずそのことにびっくりして言葉を失いました。
拝読して「なるほど~」と思う自分は、一体だれだよ。
と どうにもぽっか~ん・・とした気分にすらなりました。
いつもならみずから(一応)きちんとことばで記す「制作について」ですが
今回はほぼまるまる久松先生にいただいたおたよりと
わたしからのおへんじとで
制作話になっております。
少々長いですが、お読みいただけましたらうれしいです。
(ところどころほめられすぎておはずかしい限りですが文脈を損なわないようにそのまま載せました。すいませんすいませんすいません)

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久松英二先生(龍谷大学国際文化学部教授)のおてがみ

「いつのまにか どこからか」を読み終えたあと、
私は自分の思いをどう表現したらいいかまったくわからず、
ただ、沈黙したまま感動の余韻に浸り続けた次第です。

このお話のきっかけとなったのは、
ある ちょっとした出来事だろうと 思います。あるとき、本を開こうとしたら、
一枚の葉っぱがしおりのようにあるページに挟まっているのを発見した。
たったこれだけ、時間にしたら 数秒の出来事。
このなんでもない一瞬の出来事が、
山崎さんの感性の「ろうそく」に火をともした。
表紙に灯るろうそくは、その瞬間を象徴したものでしょう。
そして、「おや、この葉っぱ、いつ どうやって、ここに」 という当然の疑問が、
そのまま 「いつのまにか どこからか」という絵本のテーマに即つながる。
この疑問に応えようとして生まれたのがこの作品だと思うのです。
しかも、山崎さんならではの、 存在するものへのいとおしみが 物語を 紡いでいきます。
(中略)
いつどうやって、この葉っぱのしおりを入れたかわからないのであれば、
しおりは、私がいれたのではなく、しおりが自ら入ってきた、としか考えられないですよね。
その面からお話が展開したわけです。
でも、このかえでの妖精の訪問は、ある意味、現実的ですよ。
つまり、これはうさぎさんの夢の中での出来事と思われるからです。
現実ではないという設定が現実的なんです。(中略)
でも、うさぎさんにとっては、夢であっても夢でなくても、
心の中の出来事であろうが現実であろうが、
そこには嘘と真実、偽物と本物、という 大人の二者択一など存在しません。
「ともにある」ということの喜び、
同じ方向を一緒にならんで眺める幸せ、
それはいかなる場面であっても、いかなる状況であっても、
真実であり本物です。
そういう喜び、幸せはきっと、
「ゆるりゆるり」と味わうものでしょう。
しずかでふんわりとした「時」のかたちで心にしみてくるのでしょう。
そのような「時」の揺蕩い(たゆたい)を象徴しているのが、
いずれのページにも描かれている大きな振り子時計です。
振り子はゆっくりのんびり揺れています。
時計がゆっくり刻む「時」は、
夢の世界でも、現実の 世界でも、いつもそばにいて、
そっとやさしく、うさぎさんの一瞬一瞬を寿いでいます。

一度見たら忘れられない 美しくやさしい絵と 日常の殻を破った自由なことばの選択は、相変わらずです。

 

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やまざきからの久松先生へお返事

ありがとうございます。
いつもながら、感謝でいっぱいです。
そして
今回の「ばれ具合」にことばを失いました。

東北の山側の町や北海道などで
古くからあるたてもののしずかさにふれるうち、
もやもやと描きたくなったものがたりでした。
廃校になった美唄の小学校の木造校舎。
花巻の宮沢賢治の羅須地人協会。
遠野の曲り家。
逗子の、古本屋。
そこに差し込む、日の光。

古いものたちが湛えている時がもたらすやすらかさを
ちいさなおこさんたちもなにかしらの気配として感じている様子もひどくふしぎでした。
なつかしさなど まだもちえない おさないひとびとが
こんなにもおだやかにそこに居る秘密が、
きっとなつかしさの正体なんだろうなあなどと
ぼんやりかんがえました。

その気配を描きたいと、無謀にもおもったものの
ぼんやりしすぎていて、どうにもこうにも、作業はすすみませんでした。
そんなとき、
「場所は記憶をもちうるか」 というようなモチーフで書かれた、
過去に繰り返し読んだ本をなにげなく手に取りましたら、
なかから はらりと、
ナナカマドの葉がこぼれたのでした。
北海道にもって行って、読んでいたことがあった本でした。
それがどうにか端緒になって描きあげました。
ある種おもしろい作業の日々でしたが、
「絵」にしかなりませんでした。

ですから、そんなこんなが
すっかり書かれていた久松先生のおたよりに
びっくりしてしまいました。
すべてが明らかにことばになっていたことに。
すべてを明らかなことばになさった久松先生に。

いくつもうしあげても足りませんが
ほんとうにありがとうございました。

深い感謝をこめて

山崎優子

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以上です。
ひとつだけ補足いたしますと、
わたしのお返事にかいたとおり、わたしにとって
「おや。いつのまに。ここに?」はさんであったのは 真っ赤なナナカマドですが
おはなしはきいろいカエデにしました。
去年の10月、北海道東川町の里山でぼんやりしていたら
ひらひらと目の前にふってきた方です。
なまえを、イタヤカエデ、といいます。
「いたや かえで」さんとして
ほんとにどこかに居る気がします。
お会いしたいものです。

 

 

(ラストページ。ちひろ美術館の松本猛さんが気に入ってくださいました。久松先生のお手紙とあわせて「第8回もう死んでもいい。でもいやだ」な気持ちです。)