◆一般=専門家でない者にとっての科学 というインタビュー記事を読んで、
事実(現象)とそれに対しての理論の考え方こそコミュニケーションの基礎だと理解する。
それはそのまんま絵本作りにあてはまる。
直観でつかむ絵本のモチーフは、直感でしかないことも含めて現象であり、
制作は感覚をたよりにしているようでいて実は十分に論理的だ。
感覚。理論。絵。ことば。あたまのすみずみまで必死になって血をめぐらせていると思う瞬間があり、
熱を帯びているとわかるときがあり、それは快感だからやめられない。やめたらたぶんやばい。
◆9月号の制作がおおづめで、編集さんとテキストのうちあわせをするなかで、
展開の、ある部分について、「ここでじゅうぶん時間をかけたい」という相談になる。
「時間をかけたい」とは、時間をかけてつくる、ということではなく、展開そのものに対してで、
そのページがもつ時間を十分に伝えたい、そのページにとどまってもらいたい、という意味で、
そのためにいっしょに決定したことをそのまま反映した。
絵をかきあげただけでは、文をつけてみただけでは、わからない、えほんとしての「タイム」。
めくる、という、ふるまいがあってこその、えほん。
◆9月号のにじのひろば。えほんのあとがきに相当する350字に苦闘する。
震災前に着想した海辺のモチーフ、震災の当日にたまたまきまった出版、つくりあげることができなかったこの2年を、
さかのぼるような思いで、この本のモチーフをつかんだ瞬間に戻っていくことにする。
ある意味、それは災害の超え方かもしれない。
石巻のあたらしい友人ふみさんの、「優子さん、海は、やっぱり、いいね。」のことばにあとおしされる。
彼らがかかえたままのとてつもない喪失、それでも、海は、やっぱり、いい、という、そう、思うにいたる、なにかしらの大きな普遍に、
せめてたどりつかなければならない。さかのぼっていく道筋はたどるが、逆戻りとはちがう。忘却ともぜったいにちがう。
◆なんてことを考えると、絵本なのにおおげさな。というひともあるのを存じ上げている。絵本だからできることだ。
◆旭川の中川さんからもうすぐものすごい木彫りがとどく。さきに写真がきた。震えがとまらない。
◆9月号の描き上げ直前からの、すわりすぎからくる限界的腰痛を一気回復をねらった歩きすぎで猛烈にこじらせたうえ、
頭に極端に血がいかなくなったようなからっぽ感覚や体全体の機能不全感みたいな、笑うしかない状況からようやく回復しつつ
5月おわるじゃん。