くらやみうまれのともしびは のこと 3

2012年8月23日(木)

 

テレビでは甲子園の熱戦を伝えております。

その背景の青い縁取り画面には、高温注意情報がながれてゆきます。

気象庁が適切な冷房の使用を呼びかける中、あっつい! なりに まあ いけてる海風にふかれてテレビの前で、

ここはもう梶井基次郎の「檸檬」しかありえないでしょう。

と 書いている時点で、だいじょぶか。あっついんじゃないのか。

こないだも あれだ、ほれ、

あっついなか 中華鍋でぼんやり夕飯をこしらえていたら、

食べるころには両手が「え?やけど?」みたいにじんじんしててこまったじゃないか。

・・・・・・・・だれもとめてくれない くだらないまくらはやめにして、はい、4行目。

ここはもう梶井基次郎の「檸檬」でしょう。

 

幼少から肺病をわずらっていたという梶井基次郎青年のこの小説は、

『えたいの知れない不吉なかたまりが私の心を始終おさえつけていた。焦燥といおうか、嫌悪といおうかー

 それで始終わたしは街から街を浮浪し続けていた。』

(太字は梶井基次郎「檸檬」(新潮文庫)より。読みづらい漢字はふりがなをそのままひらがな表記になおして引用しました)

ではじまり、

街を浮浪しつつ八百屋で買ったレモンを、丸善の本棚に置き去りにし、

『棚へ黄金色に輝くおそろしい爆弾をしかけてきた』結果、『あの気づまりな丸善もこっぱみじんだろう』という、

梶井青年にとってはすこし愉快な妄想とともに、おわります。

・・・・わたしには覚えがないのですけれど、高校国語教科書にあるそうで、そうか、あるだろうなあ。と

おとななら じゅうぶんにそのもやもやに想いをはせて なつかしんだりいたしますが、

ここは、そこじゃありません。

梶井青年が、浮浪しつつ八百屋を眺める場面。

『そう周囲が真っ暗なため、店頭に点けられたいくつもの電灯が驟雨(しゅうう)のように浴びせかける絢爛(けんらん)は、

 周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。』

健康不安のなか成長する梶井青年の目にうつる、闇と光を、わたしは想ったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ、梶井基次郎の小説に「闇の絵巻」があります。

(以下太字は「闇の絵巻」新潮文庫)

 

肺患いの療養のために滞在した山間部の療養地で『闇を愛することを覚えた』梶井青年が、

『こうしたことは療養地の身をかむような孤独と切り離せるものではない』と自覚しながら、

療養地のある山間部の『渓(たに)の下流にある一軒の旅館から 上流の私の旅館まで』の闇の街道と、ところどころで

遠くに近くに眺める灯りについて、道なりに描写しています。

不安をかさね、この世にあることの刹那の気分をかさね、最後には自分の逗留する旅館の灯りを、安堵の気分でめざしながら、

かれは漆黒の闇をひとり歩いてゆきます。

 

文字通り絵巻です。

梶井青年のふさぐ心に想いをはせても なお、「檸檬」の八百屋のはなつ光とあわせ、なんと美しい情景の数々でしょう。

というよりむしろ、逃れようのない病をかかえながらも、生きようとした梶井青年にこそ見えた、闇の深さと、

闇の中だからこその、灯りの、ともしびの 美しさだったのではないでしょうか。

 

そんなことを想いながら、梶井の「光」に心を射抜かれるようになったのも、

日々を長くくらすなかで、

とつぜん、くらやみにほうりこまれてしまうようなあらがいようのないことが、自分や家族にも、また親しい友人たちにも起こり、

そしてそれは、生きていれば、だれにでも起こることだということを 知るようになったからかもしれません。

 

自分の近辺でおこるそんなことこんなことを、ささえたりささえられたり、ふんばったりのりこえたりするうちに、

以前、若い家族だったころに北海道の森で知った、ほんとうの闇の感触と、そのなかの灯りのありがたさと、

梶井基次郎の描く闇と光は、完全に重なり合い、

絵本のモチーフとして、想いのなかでくすぶって、ほそい煙をあげまじめました。

2年ほどまえのことです。

つづく

 

 

またまた またです!