2012年3月11日(日)
一年たった。
金曜日だった、恵比寿駅にいた、家族の所在はバラバラで、
遠くで、自然が、巨大な科学が、あんなことをおこしていたことも、そのときはわからなかった。
自分の事態を切り抜けることで精いっぱいだった。
そういえば今年、うるう年なんだね、
土曜日じゃなくて日曜日になった。
末息子がつぶやいた。
2時半、つれあいと海岸に向かった。
徒歩2分。
同じように海底があばれたとき、
どれだけ浸水するか、あたらしい予測もでた集落。
海岸には、たくんさん、ひとがいた。
ぎっしりじゃない。
けれど、3月の海岸の人出ではない。
家族連れのちいさなこどもは
じりじりしだした春の日差しのなか、
波打ち際できゃあきゃあ楽しげに靴をぬらして
石やら貝殻やら海藻やらを海のきらめきにむかって投げ返している。
沖のサーファーが、
つぎつぎ浜に上がってくる。
その時刻、街からのろしが上がった。
浜のみんなは一斉にことばをつつしみ、こどもらもはっとして、祈った。
鎮魂と。
海へ、鎮まりを。
目をつぶりただ祈る耳に聞こえてくる波音のゆたかさ。
こんなしずかなこの浜を、わたしは知らない。
しばらく、つれあいとならんで波打ち際にいた。
去年、いっしょにいられなかったね。
にちようびなんだね、ちょうど。
きょういっしょにいられてよかった。
「にちようび」をうしなった多くのかたがたを想う。
のどになにかがつっかえる。
「げつようび」にむかわなければならないのに、
そのためにも
にちようびはあるのに。
耳のなかに波音だけがある。
海辺で生きるということ、この国で生きるということ、この星にうまれたということ。
覚悟と、日々のさいわいと。
あした、を信じて生き抜くために、
この星に間借りしているあいだ、
考えなければならないこと、行動しなければならないこと。
考える、ふるまう、くりかえし、くりかえす、なんどもくりかえす、やめない、そう決める。
波音に合わせて。
あたらしい、げつようび。