絵をかいていないときのこと

2016年5月6日(金)

ひとがどんなふうにあたまをつかうのかつかいわけるのか
ひとそれぞれだとは思うけれど
いそがしくしたこの2年、よくわかったことは
あたまのなかにいくつかの領域があってそれぞれがはたらきを分担しているのであれば
(脳科学とかでよくあたま地図みたいのを見るあれ)
じぶんはその領域を同時につかうのがたいへん苦手だということだ。
絵をかいていれば言葉領域が閉店。
ことばをかんがえていれば絵の分野は荒れ野。
いつもいちばん苦労するのは
原画を全部描きあげたあとテキストやあとがきを書く段で、
まったくことばがみつからず現れてくれず困り果てる。
ひどいときには買い物のメモ書きもままならない。
それでもメモは要る。
なにしろあたまはぱんぱんだ。
領域問題のみならず全体にも問題をかかえる。
いそがしくしている日々にはいきぬきができず、
ひといきだなあとわかると
あたまは完全に液状化し
ややあってスポンジ状にかわいてきたとき
目にするもの耳にするもの肌にふれるものそばをとおりすぎるもの
なにもかもがいったんそこへすいこまれていき
またいそがしくしたくてたまらなくなるというのが
よくわかった。
ここ2年は、
いま白紙。と自覚できる日は2日しかなかった。
どっちも北海道にいた。
雪の中にいたせいかもしれない。
雪はもうやんだし、いまいる関東ではあちこち緑が爆発している。
小さなこの海辺の町など膨らんだ緑に圧迫されて
空気まで濃くなった気がする。
深く息を吸えばからだのそうとうな奥まですがすがしさがとどく。
そしてまた目がさめてしまう。
もっと濃いなにかを吸いたくなって夏のさかりの北海道の緑の中にたたずめば
きっとまたおしつぶされそうになって
自分がいるのかいないのかわからなくなるあの感じにうっとりするだろう。
冬にくたびれた北海道が息をふきかえす準備期間の4月には
久しぶりに八重山へいった。
あの青に肌を溶かしに行ってきた。
海の水にも島の空気にも溶けることはかんたんだ。
固体をやめることがいともたやすい。
水平線にうかぶとなりの島が黒雲におおわれて稲光がたてに走るのをながめながら
風に吹かれる。
風向きがかわり温度が急変するのを感じ取る。
植物の甘い香りがたちこめる。
そのなかにいれば自分はもう意識しかないようなそれすらないようなきもちになってくる。
それは北海道でのあの感じとちがう。
どちらも好きだ。
えらべない。
島をぶらぶら散歩するとものすごい赤がここかしこに点在する。
赤をみているうちに
また絵を描きたくなる。
それが赤い絵とはかぎらない。
雨上がりのアダンの葉が天を指している、
帰って絵をかきなさいと言っている。
ような気になってくる。
もっとゼロにならなければとおもうのに
ゼロになるのがへたになった。
ちがうか、へたになったような気がするが、
うまくなったのかもしれない。
瞬時にゼロになってまた出力をあげることができるようになったのかもしれない。
旭山動物園のかばのおよぎがそんなふうだ。
あんなふうにあたまのなかを泳げるようになったのかもしれない。
縦横無尽に縦横斜めにXYZに。
しかしわたしは泳げない。
ただ海にうかび、湖にうかび、異界のさかいめにいて
この星にうまれたことを今日もよろこびたい。
異界のおもてにうつしだされるそらのいろやすがたにからだをひたして
訳がわからなくなりたい。
そしてあたらしいしごとをしたい。
今度の本ができてきたらそれをベースにまた個展の予定もたてたい。
絵が描きたい。
白い画用紙にむかえばいつものように描き方をぜんぶ忘れていてうろたえるのだろう、そんなことはわかっているが絵を描きたい。
ゼロ期はこうして終焉する。