2012
27
Nov

すべて日々記

石巻花巻八戸への旅 のこと

2012年11月27日(火)

 

石巻へ、ようやく行ってきました。

恩人粟野さんをおたずねする旅です。(粟野蒲鉾店さんのこと

とにかくお会いしたくて出かけようと思ったものの、

とてつもない被災をした石巻、今更行く、今になって行く、という後ろめたさもぬぐいきれず、

旅もお買い物も支援です、とは言われても、それでいいのだろうかほんとうに。

と ぐずぐず考えながらあっという間に仙台に到着、長い列に待って2本目の便にのれた石巻行きの臨時バスにゆられ、

1時間ちょっとで石巻駅前に着きます。

自力で粟野さんのお店にたどりつきたいと思っていましたが、

出発前のやりとりで駅まで迎えにきてくださることになり、

着いたバスの窓から見えるあのかたがきっとそうです、そうでした、おたがい なんででしょう、すぐわかりました。

いきなり胸がいっぱいですが、ものすごくあたりまえのはじめましてのごあいさつをするのがせいっぱい。

同行した夫と長男を紹介するのもつかのま忘れ、

初めて吸い込む、石巻の空気です。石巻の、においです。粟野さんのまちです。

大津波にのまれた、あのまちです。

おひるをいただくお店を、粟野さんが予約しておいてくださいました。

駅からあるいて向かいます。粟野さんの大学生のお嬢さんもいっしょです、下宿先からもどってきてくださったのでした。

この道を、海水がおおっていたのをテレビで見ました。

00サイボーグの像が立っています。仮面ライダーもいます。

彼らもここが故郷なのです。

震災一ヶ月後、10日間ほどボランティアに来た長男が活動拠点にした施設を過ぎました。

見上げれば、 水がとどいたあとがまだあちこちにわかり、

抜け落ちたような更地がいくつもあり、それでも商店街は、ふたたび開かれたお店がとびとびにつづき、

こんなにかたづいたんだ、とつぶやく長男、

息子さんは、この辺にいらしたんですか。

粟野さんの問いに、そうです、ここからグループに分かれて散らばったんです、

宿泊は専修大学でした、グランドにテント張って。

そうだったんですか!

などというやりとりに耳をかたむけつつ だんだんと川のほうへ、海のほうへ、

横断歩道をわたりながら、こんどは 粟野さんのお嬢さんにきくはなし、

・・・下宿先で、震災後何日もご家族の消息がわからなくて、やはり同じ海辺が故郷のともだち何人かと、

天涯孤独になったのだと絶望して 肩寄せ励ましあって過ごした数日、

いますぐ石巻に帰りたい、でも もどっても邪魔になるだけかもしれないと

なにもかもをこらえながらおくる せいいっぱいの日常のために、

食べ物を買い出しにいったさきで鳴った電話から、無事をしらせるお母さんの声をきいて

あたりかまわず泣き崩れました・・・。

さらさらと語られるそれらは、いま 自分が石巻にいるということで、

報道で知ったさまざまなことや、もっと大きなかなしみへの想像もふくめてもなお、

あらためて胸がつぶれるようで、それだけで、やっぱり、ほんとうに、

石巻へは来なければならなかったのだと思ったのでした。

そうやって到着した、粟野さんのおさななじみの女将さんがしきるお昼のお店、八幡家さん

ことし7月にようやく再開なさったそのわけは、

女将さんがご自分のお店そっちのけで、多くのボランティアのかたがたのお世話をなさっていたからなんです、

えらいんですよ、ここの女将さんは。と粟野さんにうかがいながら、

いただくお弁当はすべて、調味料にいたるまでほんとうにすべて、石巻と周辺の材料でととのえられ、

しかもおいしくてたまらない、

冷えてもおいしい肉って! と長男はしつこいくらいにくりかえし、大好きなお魚もさすがの三陸の味、

いつも食べるお昼の量よりずっとずっと多いのを3人ともなにひとつのこさず ぜえええええんぶ頂いたのは、

とにかくおいしかったから。

なにもかもが美味くてたまらなかったから。

せめてお買い物を、お金をつかいに、とやってきたのに、お昼は粟野さんにごちそうになってしまい、

ただただおこころづかいが申し訳なく、半分途方にくれながら

あとで粟野さんのお店自力で寄ります、それから復興市場・石巻マルシェでたくさんお買い物をしたいです、

と いったん粟野さんとお別れしました。

 

まず向かったのは先週再開したばかりの石ノ森漫画館

大津波が遡上した川の中州に宇宙船が降り立ったみたいにたたずむその建物は、

「みごとに流されませんでした!」と粟野さんはおっしゃり、

たずねてみたところが、はるか頭上にマーキングされた津波到達位置のしるし、

そして再開を祝う花束、花束、花束、

たくさんのこどもたち、こどもたちをつれたおとなたち、サイボーグ009たち、仮面ライダーたち、

笑い声。歓声。職員さんたちの明るい呼び声。

そして石巻のヒーロー、シージェッター・海斗は、手足を奪われたまま、3.11の展示コーナーに立っています。

そこには、あの日の映像と、あの日の石巻FMが繰り返され、石巻日日新聞の手書きの壁新聞、

そして記者さんの乱れ文字のメモもあり、

訪れているだれもがそのコーナーで 張り付いたように佇んでいるでした。

いま歩いてきた駅からの道が。

いま会ってきた方々が。

あふれた海の中に、前にいたのでした。

その光景。その音。恐怖。かなしみ。

きっといまでも想像しきれていないにちがいありません、そう思います、

それでも、石巻へほんとうにきて、胸のつぶれ具合が ちがうのでした。

ふと見ると、来館者はほんとうにみんな泣きそうな目でそれらを見ており、

漫画館は、復興の大切なシンボルでもあると同時に、忘却への歯止めにもきっとなるのでしょう。

中州にあって、この川をながれてくる方々を、ここで多く救出したのだともききました。

 

日和山という小高い山にのぼり、沿岸部を見下ろしました。

ここからこっちは真っ暗だった。

全部がれきに埋まってたんだ。

長男がぼつぼつつぶやきました、

もう全部どけたんだな。

真っ暗な窓がならぶ病院が見えます。テレビで何度も救出の様子がうつっていた市民病院でした。

カメラを、向けることができませんでした。

 

日がくれかかり山をおりながら沿道の家の2階にお年寄りがおふたり 柿を干していらっしゃるので

こんばんは、とごあいさつ。

さむいねえ。

さむいですねえ。

気イつけて。

はい、ありがとうございます、おじゃましました。

大きな柿の実は、橙色にかがやくようで、このまちのこれからを、だれもがみんなそう願っているように、

すこしずつまた、ちからが灯っていくのだと 思わせてくれるかのようです。

ふと目をやれば、町のほうにはぼんやり点々とちいさなあかりがつき始めています。

そのなかを急ぎ足で、粟野蒲鉾店 目指してまた坂道をおり、

空き地にはさまれた粟野さんのお店に、とうとう、やってきました。

明るいお店のなかには なんと、

おしつけがましくなっても、と

以前、躊躇したあげくに結局お送りした

わたしの絵本やポストカードを かざってくださってあって、

もうどうしたらいいのかわからない、ふたたび待っていてくださった粟野さんに、

かすれたようなお礼をいいながら泳いだ目にうつったのは

本日の笹かまぼこは売り切れました、の表示、

茫然としていると、

ふふふ、とってありますよ、

と奥から出してくださったのを、旅の始まりの日だけれど、逗子まで日帰りする長男に持たせるぶんと、

このまま北上してたずねる八戸の友人へのお土産にいただき、

もう来てくださっただけで、ほんとうに来てくださっただけでと

おっしゃってくださるのを、よかったのだ、来てよかったのだ、こなければならなかったのだ、と

思っているところへ、道中のおつまみに、と かまぼこはじめ、またもやいろいろ頂戴してしまい、

恐縮しまくって ことばをえらぶ余裕もなく、

ほんとうに来てよかったです、また来ます、といいながらなごり惜しいのを

これから復興市場へお買い物にいきます、長男が作業したところも行ってきます、と

とっぷりひぐれたお店先でお別れしました。

あとですぐ、まず、メールします。

さよなら。粟野さん。

また来ます。

 

復興市場で金華鯖の干したの しめたの いろいろしたのはじめ、大好物の海藻類などあれやこれやを買いながら、

お店のお兄さんが話してくれる 沿岸部のあちこちのまちのこと、壊滅したんだ、でもできた、わかめ。

それもたくさんいただきました。

また買いにきます、と全部宅急便にしてもらい、

市場とは別の、大漁旗でつくるグッズのお店でも巾着袋をひとつ購入、

宿が取れなかった石巻を発たねばならない刻限がせまるなか、くらい街並みをこんどは、

長男についてゆきました。

こっちだ、こっちのほうのはずなんだ、

と向かう先はどんどんあかりから遠ざかり、

このあたりをやったんだ、

と 立ち止まったところは、

ちいさなのみやさんが軒をならべる一角で、

ひとつもお店が開いてないのは 今日が祝日だからだろうか、そうならいいんだけれど。

それから目をやる先の建物のすきま、

身体ひとつ入るかどうかのそういうすきまは大変だったんだ、

ちょっとでも泥を残すとにおいがとれないんだ。

泥?

土嚢袋に詰めるんだよ。

どんどん積んで、それを運ぶトラックが来るんだよ、そうだよ、とても間に合わないんだ、

どんどん積まれていくんだよ。

おばさんに申し訳ないくらい感謝されて、でもかたづかないんだよ、

ほら、ここなんか、まだ、泥どけただけで、手をつけてないよ、

と見上げるひしゃげたシャッター、

ね、たまに におうだろ、まだ。

どぶみたいな、もっと化学物質みたいなにおいも混じってたんだ。

聞きながら思い起こす、

石巻から帰った息子が、たいていの苦難は苦難のうちにはいらない、といったこと。

よく行って来てくれたな。

夫がぼつりという。

いや。べつに。

長男の返事はいつもとおなじ。

 

このまちとのご縁をつくづく思います。

これからのご縁、きらさず、どうか、どんなにささやかでもかかわらせていただければと願うのでした。

そのあと、親友をたずねて八戸までゆき、

ほとんど20年ぶりの再会、

ひさしいごぶさた時間を八戸の夜の中でうめてゆきながら、

ちょっと見てきただけだけれど

わたしたちがはなす石巻のことを

八戸の友もほんとうに真剣な顔で案じているのでした。

(八戸も被災地、おふたりほど、まだみつからないそうです、

津波の合間をぬって

親友のご亭主は帰宅なさったのだそうです)

そのとき、

そうだよ。と わたしは思った。

石巻は八戸と並ぶみなとまちのはずなんだ、

石巻もごっついおいしかったけれど、またもや なんたらおいしい八戸の夜。

不景気だよ、やっぱり、という友人夫婦だけれど、

八戸のこの活気、笑い声、あかるさ、あたたかさを、石巻もとりもどすまで、

わたしたちは通えばいいんだ、

八戸にもたびたびやってきて、バロメータにすればいいんだ、

石巻を気にかけながら八戸の鉄工所の多忙な日常を置いておけない友人夫婦の分も

わたしたちが通えばいい。

そう思ったら、すこし、役割をもらえたようなきもちになって、

友人に言いました。

また来る、もうしょっちゅう来ちゃう。

金華鯖も八戸前沖鯖も大好きだもんね。

ついでに花巻もいっちゃう。

宮沢賢治師匠の里をおたずねするのは業務上の都合だよ。わたしもがんばらないとだよ。

さむいの?

はっ!慣れてやる!

 

そう決めた、旅だったのでした。

 

 

 お買い物の一部